ライオンの島でアフタヌーンティーをのむ。

6週間のスリランカ滞在記。

英語と転んだかたつむり

言語は、コミュニケーション手段以上の機能をもっているものです。

正しい日本語(この表現自体疑問を呈するものですが)や敬語を使う人がいればその人の育ちの良さや教養を感じさせるし、

同じ日本語でも砕けた言い方すれば心的距離の近さを暗に表したりもします。

このようなことを複数言語の使い分けによって行うのがスリランカ人です。

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(上からシンハラ語タミル語、英語です。シンハラ語は文字が可愛くて地球の歩き方では「かたつむりを転がしたよう」と表現されています。)

スリランカではでは基本的に3種類の言語が使われています。

シンハラ語の文語、口語、そして英語です。

シンハラ語の文語と口語は文法から異なるもので、前者は書物などに、後者は会話などに使われます。

英語も基本的にコミュニケーションに使われるのですが、じゃあシンハラ語口語と何が変わるのかというと、英語で話す方がより公的と考えられています。

 

英語が連結語として憲法上認められているのはイギリス領時代の名残ではあるものの

西アフリカ諸国のような多民族国家の為英語がないと国家が成り立たない、というほどでもありません。

彼らが3種類の言語を使い分けている背景には、この国を語る上では欠かせない階層主義と、純血主義があります。

 

カーストといえばインドに見られる社会階層の事を思いつきますが、実はスリランカにもカーストはあります。

とはいってもインドと大きく異なるのがインドカーストにおける最上位(ブラフミン)と最下層(不可触民)が存在しません。

それでも同じカーストとの恋愛・結婚を現代でも求められるし、「清掃員はあの階層がやるもので、自分たちがやることではない」といったように階層が職業に対する意識にも影響しています。

ちなみに日本含め大多数の国では「カースト=差別的」と捉えますが、別の見方をすれば分業社会とも捉えることもできます。

たしかに職業の自由はありませんが、予め身分や階層に応じてある程度職業を指定されていることによって、一部の氏族が社会を独占することができないのもまた事実です。

こうすることによって様々な人々が共存することを可能にしたのが彼らにとってのカーストなのです。

(こうしてみるとカーストは資本主義とも社会主義とも少し違う、また別の社会の在り方として考えられるかもしれません。)

 

そういった階層意識と言語に何の関係があるかというと、英語を話すことで自身の地位がある一定以上であることを示すのです。

英語を話せるスリランカ人については大体において一定以上のカーストにいることが伺えます。

だから彼らはシンハラ語で会話しながらも、時折あえて英語に切り替えて会話することでお互いのステータスを確認するそうです。

現代の日本も英語の語学力が職業に影響する点は同じですが、日本は単純にスキルを証明するのに対しスリランカでは自身の階層やなるにふさわしい職業を証明するという意味で英語の語学力が職業と関わります。

 

逆に英語で話しかけることは、この国においては相手を一定以上のカーストとみなすある種の敬意を表していることにもなります。

もしホテルマンに英語で話しかければ、それだけで彼らに敬意を表していることになるのです。

 

こうして英語による機能を重視する一方で他のシンハラ語タミル語も同じくらい、または英語よりも大切なものと考えられています。

現在は国民の大多数を占めるシンハラ民族のシンハラ語とタミル民族のタミル語公用語となっていますが、イギリスから独立した当初はどちらの言語が公用語になるのか大きな争いになりました。

学校によって教えている言語が違ったため、公用語が何語になるかによって学校と社会階層の関係も大きく変わることになりかけていたというのも一つあります。

しかし何より公用語であることがスリランカの主流であること、スリランカは自分たちの国であることの証明になったのです。

結果として先にシンハラ語公用語となったのですが、その中でも文語と口語を使い分けているのは

シンハラ語の文語だけがシンハラ民族の精神文化を表現するものとして考えられていたからです。

 

このようにスリランカの言語文化の背景にはスリランカ人の階層主義と純血主義があります。

彼らは英語を使うことで自身のステータスを表明し、一方でシンハラ語を使うことで自分たちの伝統や精神文化を確認するのです。

「10数年後には翻訳機能が発達して、すべての言語とコミュニケーションが取れるようになる」なんて話もあったりしますが

一つの言語文化に様々な社会様式や精神文化が背景にあることを考えると強引に翻訳する行為はそういった背景を無視することになるだろうし、その差異をあたかもないかのように扱うことはある種危険とも言えると思います。

 

言語がある土地の人間によって作られた、物理的質量を持たないその土地付近の人間の為にあるツールであるのだから土地の気候やそこに生きる人に合わせて変化を遂げるのは至極当然なことです。

 

ら抜き言葉」をはじめとした若者言語を挙げて「何が正しい日本語なのか、正しくない日本語なのか」などが議論に上がる今日の日本ですが

「何を失いたくなくて変化を恐れるのか、変化する中で何を守りたいのか」

そんなことを一度考えてみてもいいのかもしれません。