スリランカの宗教2~世界四大宗教まわってきました~
スリランカには世界四大宗教が集まっているということを以前の記事で紹介しましたが
一昨日はその四大宗教の教会ないし寺院巡りをしてきました。
初めに言うと、とってもとっても長いです。(笑)
それでも1日で見た全てを同じように感じてほしくて、あえてわけず一つの記事にまとめて書いてみました。
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「願い事をしたら、またお祈りをしに行きなさい」
最初に行ったのはローマ・カトリックの教会でした。
最大都市コロンボからバスで数分、その名もSt. Anthony's Shrine。
(ChurchじゃなくShrineなんですよね。)
ここはもちろんキリスト教徒が行くところであるものの
キリスト教徒以外の立ち入りが禁じられていることがなく、ヒンドゥー教や仏教徒なども実は立ち入ります。
中へ入って見ると普通に教会なのですが、そこには大小様々な聖像の入ったショーケースが並んでいました。
そしてそのケースにベッタリと手を当てている男性の姿が。
手跡をガラスに残していくのは日本だと中々悪目立ちしそうな行為な気がしますが、よく見るとその男性に限らず実はみんなガラスに手を当てて祈っています。
聞いてみるとケースに手を当てている彼らにとってはただ手を当てているのではなく、気持ちでは聖像に触れているのだそうです。
見渡してみればすべてのケースに色々な人の手跡が、神に触れた跡が残っています。
人々は手を合わせて何かを呟いては神に触れ、それを何度か繰り返しすべての聖像を回り、塩と胡椒の実が混ぜられたものを礼拝堂に置いてある入れ物から手に取り口に入れるのです。
(この塩と胡椒はこの教会独自のものらしいです。大航海時代貿易の中継地だった名残かなと勝手に思っています。)
讃美歌はなく、聞こえるのは神に捧ぐかすかな声。
壁画や彫刻よりも、そこで神に祈る人々が印象に残るような教会でした。
そんな教会で一番目立っていたのは中央手前にある聖母とキリストらしき像で、そのケースにだけは紙のようなものが何枚か外から入れられています。
それはお札ではなく願い事を書いた紙を入れているそうでした。
誘われたので願い事を書いて入れたところ、それを見ていた一人のおじさんが親しげに英語で話しかけてきました。
「願い事をしたら、またお祈りをしに行きなさい。
ここに来るのは難しいだろうから、自分の国の教会に行きなさい。
願い事しっぱなしではだめなんだ」
親しげに、それでも諭すような口調で「言ってることわかる?」と聞かれたので
少し気後れしながら「わかった」と答えると彼は満足げに教会を出ていきました。
表面的な軽さを出しながらも強く言ってきた彼の言葉は
「遊び感覚で神を使うんじゃない」というような、静かな怒りすら感じられるような気がして
一緒に願い事を書いていた台湾人のシエンは教会を出てから「本当に行かなきゃいけないのかな?彼が少し怖かった」 とこっそり私に伝えてきました。
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「ココナッツジュースをかける理由?神を満足させるためだよ」
次に向かったのは教会から徒歩1分くらいのところにある建物。
タミル人が信仰するヒンドゥー教の寺院です。
ヒンドゥー教と仏教は関わりがあるので、仏教徒も来るのだそう。
入り口を通ると牛舎に居る牛たちが最初に出迎えてくれます。
教会と違いここでは靴を脱がなければならないので、靴置き場に靴を置きメインの広場へ。
この日はヒンドゥー教徒の祭日「マハーシワラトゥリ・デー」であり、色様々なサリーを身にまとい眉間に赤いペイントを施した人々がたくいんいました。
奥に進んでみると人でごった返している建物が。
たくさんの供え物に囲まれながら僧侶が座り、そこにたくさんの子供たちが何かを順番待ちしているかのように並んでいます。
この日はヒンドゥー教の最高神の一柱であるシヴァ神が女神パーヴァーティーと婚姻を結んだ日であるとして、子供たちは儀式を受けヒンドゥー教徒として入信するのです。
(年に何回かの契機にこのような儀式を行うそうです。)
(子どもが儀式を受けている間、母親らしき人がスマホで動画を撮っていました。)
顔にペイントを施して体に白い粉をまぶし、布で出来たものをかぶせてしばらく唱えた後布を取り外すと、小さな子は立派にヒンドゥー教徒となります。
新たなヒンドゥー教徒が誕生するその場を離れ、一番メインの建物に向かいました。
こちらがメインの建物です。
建物の前には人々によってたくさんのろうそくが置かれています。
水道で手足を洗い、帽子を外して人ごみに紛れながら建物の中へ。
建物の中は薄暗く装飾された柱が並び、何か所かに像が見え
中央部は一段高くなっており、そこにある小さな部屋の一つにはシヴァ神の像がありました。
建物は暗いながらも人々の熱気であふれており
像に列をなす人々のどよめきと、熱を冷やそうとする大きな扇風機の音が響く中
時折高い鐘の音が小刻みに鳴り続け、僧侶の声が聞こえてきます。
何人かは地面に跪いて頭を地につけ 、人々が身にまとうサリーで様々な彩りが目にちらつき
少し視線を上げればライオンを象った柱の彫刻と天井の隙間から差し込む柔らかな光が
そんな多くの人混みをものともせず、空間の荘厳さと神聖さを放ちます。
眼前の光景を見ながら考えていたのは、以前ポーヤ・デイに訪れた仏教の寺でした。
満月の下、白を象徴するような空間で静かに祈っていた仏教徒のシンハラ人と
太陽が差し込む薄暗い空間の中、彩りある衣装で熱気に包まれながら神に祈るヒンドゥー教のタミル人。
この国をなす2つの民族や宗教の対称性がひどく印象的で
スリランカに来た初日に会ったスリランカ人の女の子が言っていた、「この国は多文化共生なのよ」という言葉が表すものをまさに目にした気がしました。
奥に進んでみると、一段高い中央部で大量の必死に牛乳を開けている僧侶たちの姿が。
山になっている牛乳を開いては水瓶に溜めています。
彼らの傍らキングココナッツ(スリランカで身近なココナッツ)の山も。
気になって近くで見ていたら、品のあるおじさんが発音の良い英語で話しかけてきました。
彼らは牛乳とココナッツジュースで毎日神像を洗うのだそうです。
牛舎にいる牛はこの牛乳をとるためにも飼われています。
たしかにヒンドゥー教では牛が神聖な動物でありヒンドゥー教国インドでは多くの牛を道端で見かけるなんて話もありますが
「じゃあなんでキングココナッツ?」という疑問が。
神聖なものとして考えられているのだろうかと思い、「キングココナッツをかける理由があるの?」と聞いたら、返ってきたのは
「ココナッツジュースをかける理由?神を満足させるためだよ」
というひどくシンプルな答えでした。
「キングココナッツジュースで洗い、牛乳で洗う。そうすると彼らは満足するんだ」
特別な理由を抜きに、ただ単純に「満足するから」というだけ。
「あぁ、そうか、ただ人の為を思うのと一緒か」と意外なところで納得しました。
(否定的な意味でなく)特定の神仏への信仰心が薄い一般的な日本人は
「縁起がいい」「運気が上がる」といったあくまで“それを行う自分”を起点に考え、その対象についてはそこまで考えずに宗教的な行いをすることが多いように感じられます。
教会で話しかけてきた少し怖いおじさんも寺院の親切なおじさんも、当たり前だけどもそれぞれの神が実在すると信じていて、だから当然のごとく“神”のためを思って何かをするのです。
「罰があたるよ」
幼いころ、両親に「神様が空から見ているから」と何か悪いことをするとよくそう咎められていました。(ちなみに共々仏教徒です。)
「お天道様」にも当てはまると思うのですが、この「神」は特定の誰かを指しているというよりかは「人間を超越した何か」といった漠然とした存在に近いかと思います。
教会で諭されたことと、寺院でしれっと言われた言葉に感じた得体の知れない感覚は
「それを話す彼らの目に特定の誰かが映っているかのように感じられる」、ということでした。
当たり前だけども、それが「信仰」なのです。
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「私らは唯一神を信じる!モスクに像がないのは神が唯一メッカにしかいないからさ!」
ヒンドゥー教の寺院を後にし、トゥクトゥクをぎりぎりで4人乗りして10分ほど着いた町中にモスクがありました。
あまりにも町中で「どこにモスクあるんだろう?」と思っていたのですが
トゥクトゥク(三輪のバイクタクシー)を降りて振り返ってみると、視界に飛び込んできたのがこちら。
な、なんだってー(°Д°)
なんだこの建物は。
見た瞬間に浮かんだのは訴訟問題が起きたことでも有名な某漫画家の赤白の家でした。
どうしてこのモスクがこんな奇抜な色をしているかというと、こちらの果物をイメージしてデザインされたそうです。
ザクロです。なるほどたしかに赤白。
(ザクロはコーランに登場しエデンの園で育っているものなのだそうです。たくさんの実がなるから豊穣の実ともされるとか。)
こちらの建物はまだ工事中なので別の入り口から靴を脱いで中に入りました。
ここのモスクで1000人のムスリムが祈祷できるようになるそうです。
ちなみにこのモスクは従来のモスクを増改築するような形で公示されており、下写真のシンプルな左側の部屋が旧モスクのものとなります。
(壁にある黒い看板には日の出時刻など祈祷に必要な時刻の情報が載っています。)
女性は立ち入り禁止なので女性陣はここまでしか入れず、男性陣だけがモスクの中に入っていきました。
彼らの他にも何人かの白い帽子を被った男の人たちが裸足でモスクに入っていきます。
その様子を見ていたらモスクから出てきた、これまた1人のおじさんが話しかけてきました。
「コーランには私が学校で学んだことも、仏教の考えもすべてが書かれているんだ。翻訳版を探してコーランを読むべきだよ」
彼は最初ムスリムだったけれど考え方に悩んだ末キリスト教に一時回心し、最終的にはムスリムに戻った今、イスラム教に誇りを持っているということでした。
そんな彼が言っていたのは「私たちは唯一神を信じる!モスクに聖像がないのは神がメッカにしかいないからだ!」という、自らが信じる神への絶対的自信。
しかし同時に「唯一」という言葉はまるで他を寄せ付けない、排他的な雰囲気を放っているようにも聞こえました。
「今回私は君たちに一つの機会を与えた。天国へと導かれる道だ。」
そういった彼もまた満足げにモスクを出ていきました。
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「何も考えるな。自分の気に集中するんだ」
最後に訪れたのは仏教の寺でした。
こちらもコロンボ中心地近くにあります。
二つ訪問した寺のうち、最初に訪れたのは湖に浮かぶ小さな寺でした。
小さな本堂には献上された様々な仏像が置かれていて
日本から献上された一番大きな仏像が中央に立っています。
スリランカの寺は仏塔、菩提樹、仏像の3つの部分を持っています。
仏塔と言えば日本では五重塔、三重塔が基本ですが
インドやスリランカではドーム状のものが仏塔すなわち「釈迦の墓」とされています。
五重塔の先端に見られるお椀状のものがこの仏塔を象っていることになっていたはずです、たしか。(出典:中3の修学旅行で調べた微かな知識)
(左が菩提樹、右が仏塔)
さてこの寺も小さいながら菩提樹があり、スリランカ人の呼びかけによってみんなで瞑想を行いました。
「息を吸って、はいて」
「何も考えるな。自分の気に集中するんだ」
目を瞑れば都会の喧騒が遠くから聞こえ、風が身体をすり抜けていくのを感じます。
ここは騒がしいから集中するには少し時間が要りましたが、何も考えず自分自身に集中するというのは気が少し研ぎ澄まされるような感覚になりました。
ちなみに、上の写真の左隅に小さなお堂と像があるのが見えるでしょうか。
ピンク色の肌をし手前の像とは対照的にカラフルな彩りをしているそれは、察しの通りヒンドゥー教の神像です。
この国では仏は現世利益に関わらないので、人々は仏像に参拝した後ヒンドゥー教の神々に商売繁盛など現世利益を願います。
そういうことで、なんとこの国では仏教の寺にヒンドゥー教のお堂と神像が置かれているのです。
別個の民族による別個の宗教ながらも、同じ源流を持つものとして共存性をもつというのもこの国をより面白く感じさせます。
次に訪れた寺は有名なところで、大きな菩提樹が歴史の深さを感じさせとても綺麗でした。
この寺では仏像に蓮の花を捧げ、この菩提樹に水をやり、しばらく見学して寺を後にしました。
たった半日で4つの宗教をめぐり、様々なことを感じましたが
総括して思ったのは宗教が彼らの世界の理となり、様々な文脈がそれぞれに流れているということです。
教会でショーケースに手を合わせ祈りを呟いていたおばあさんも
顔にペイントを施しヒンドゥー教徒となるわが子を見守っていた母親たちも
自慢げにコーランのすごさについて語っていたおじさんも
小さな水瓶に水を入れ菩提樹の周りをまわっていたおばさんも
自らが信じる理の上で世間を、自分を見て生きています。
小さな都市の中で彼らの世界は並行するようで時に交わりながら錯綜し
緩やかな調和を作る日本とは少し異なり、それぞれの独立性の強さから時折ふとした緊張感も垣間見えます。
それでも互いの違いを認識した上で受け入れ共存する人々には、独特の寛容さがあるように感じました。
もちろんこの国にも何も問題がないわけではないですが
近年問題になっている宗教対立について、「対立」という構造そのものを変える新しい解決方法の鍵が見つかるかもしれません。